「芸術と○○」というテーマは、一般的に危険である。それはしばしば「○○は芸術か?」という定義に関する問いに置換され、「○○は芸術である」「いや○○は(真の)芸術ではない」といった不毛なやりとりに終始してしまうからだ。それは、哲学者のチャールズ・L・スティーブンソンが「説得的定義」と呼んだものである(「〈詩とは何か?〉について」、1957年)。
そう考えるなら、日本国内の芸術関連学会の連合体である「藝術学関連学会連合」が、オリンピックイヤーにあわせて「芸術とスポーツ」というテーマでシンポジウムを開催するのは、実に「不穏」である。スポーツの身体的側面や精神的価値を「賛美」しつつ「スポーツは芸術である」という「説得」が試みられるような事態だけは、一構成員として避けねばならないと考えた(幸い、それは杞憂であった)。
主に芸術関連の専門家が集まる場で、スポーツと芸術を直接「対峙」させるは「危険」であると感じた私は、たまたま自分がゲーム研究をしていることもあり、そこに〈ゲーム〉という「第三項」を導入して「三項関係」で考える──生産的混乱をもたらす──ことを思い付いた。以下が当日の報告の概要である。
ゲームとスポーツの関係には、興味深い非対称性あるいは「捻れ」がみられる。ゲームの研究者は、スポーツがゲーム(の一種)であることを疑わないが、スポーツの研究者はそれを認めたがらず、スポーツとゲームを区別したがる、という非対称性である。このことはおそらく、ゲームとスポーツ双方の文化的・社会的ステータスや、それを研究する学問領域の成熟度合いにも起因している。
伝統的ゲーム(カードゲーム、ボードゲーム)、20世紀に登場したデジタルゲーム(コンピュータゲーム、ビデオゲーム)、そしてスポーツの試合、それが今日「ゲーム」と呼ばれるものの三大領域である。そのことはほとんどのゲーム研究者が認めている。そこでのゲームとは、ルールや競争、勝敗、得点をそなえたものとして定義される。スポーツもこの定義を完全に満たす。したがってスポーツはゲームの一種である。
しかし他方、スポーツの研究者はスポーツとゲームを区別したがる傾向にある。多くの場合、その理由は(1)ゲームが基本的に「遊び」や「娯楽」の性格をもつこと、また(2)すべてのゲームが身体運動を伴うわけではないこと、の二点に集約される。つまりそこでは「身体運動を伴う、真面目な(遊びではない)活動」としてスポーツが考えられていることになる。なお第二の点は、デジタルゲームを用いた競技である「eスポーツ」が(真の)スポーツではない、と主張する論者が常に持ち出す論拠である。
ところが問題なのは、上記のような観点からスポーツとゲームを区別する論者のほとんどが、両者の境界や包含関係を明らかにしないことだ。例えばヴァンダーズワーグ(『スポーツ哲学に向けて』、1972年)は「遊び」と「競技」を両端にもつ一本の線としてスポーツの領域を措定している。またベルクマン・ドゥルー(『スポーツ哲学の入門』、2003年)も同様に、「原始的プレイ」と「エリート的スポーツ」を両端にもつ線分として、スポーツを捉えている。そして二人とも、スポーツの線分とは交わらない平行線としてゲームを位置づけている。ヴァンダーズワーグによれば、遊びにも競技にも「ゲーム」が見出されるからだ。
もちろん例外もある。スーツ(「トリッキーな三幅対」、1988年)は、ゲームと遊び(プレイ)とスポーツの三幅対の包含関係をベン図で表現した。それに従えば、スポーツは「ゲーム」と「パフォーマンス」の二つの領域に分けられる。前者の代表例はフットボールやホッケー、後者はダイビングや体操競技である。ゲームが「審判(レフリー)」によって「審判される種目」であるのに対して、パフォーマンスは「審査員(ジャッジ)」によって「審査される種目」である、という違いがある。またゲームにはルールがあるが、パフォーマンスにはルールがない(したがって当然ルール違反もない)という違いも重要である。
スーツのこの区分は、その後数多くの批判を受け、現在ではほとんど支持されていない。しかし、芸術とスポーツの関係を考える際にはきわめて有益である。というのも彼は、ゲームで勝敗を決定するのは「プレイや挙動の有効性」(いかに得点等に結びつくか)だが、パフォーマンスにおけるそれは「プレイや挙動の芸術性」であると言っているからだ。そしてその評価を行うのが審査員である。ルールが決まっているゲームでは、選手がルールに従ってプレイしている限り、審判の仕事はない。勝敗も、審判が関与することなく、ルールに従って自動的に決まる。審判は、いわば「法執行官」として、ルールが正しく運用されているかどうかを見ていればよい。一見同じようにみえて、審判と審査員がやっていることは、このようにまったく異なる。
実行者と評価者が分離されていること、後者はルールに依拠せずに前者の達成を評価すること。それが、スーツのいうパフォーマンスと芸術の共通点である。芸術の世界における芸術家と批評家(あるいは観衆)の関係は、スポーツにおける選手と審査員の関係と同型のものとして理解できるだろう。
このように、スポーツとゲームの境界問題を考えることで、スポーツと芸術の関係をより深いところから理解することができる。三項関係で考えるメリットがここにある。
なお当日の発表では、「ビデオゲームは芸術になりえない」という主張とそれに対する反論を軸に、ゲームと芸術の関係も扱われたが、ここでは割愛する。